りつの備忘録

推しをながーく愛でる用。

「さよならだけが人生ならば」~束の間の一花~

…やっと…これが…書ける…!!!

 

なぜなら、『よく生きよく笑いよき死と出会う』を読了したから!!!

 

昨クールのドラマ・束の間の一花を、哲学とお芝居とSixTONESが大好きな人間が語らせていただきます。

 

 

その束の間は、いくつもの奇跡でできている。

…初っ端から最終回の最後の台詞を持ってきちゃうあたり、ブログ慣れてなさが出てる。

 

でも本当にこれに尽きるので、ちょっとここから語らせてください。

 

萬木先生の敬愛するアルフォンス・デーケンさんの著書『よく生きよく笑いよき死と出会う』は、デーケンさんご自身の半生を振り返るところからスタートします。

「死生学」をライフワークとするに至った家庭環境、経験、書物。その過程が丁寧に語られるおかげで、一見近寄りがたい「死」というテーマが一気に身近になる感覚です。

 

そして、「死生学」の中核に触れるのは、中盤の第三章。

のっけからいきなり、

「生と死は、どちらかだけで存在するものではなく、決して切り離せない表裏一体のもの」

「死について学んでいれば、同時に生きることの尊さも発見できる」

 

…ゆるゆるじゃん!!!(大声)

言い回しは違うのに、ちゃんと京本さんの声で再生されてしまうのは、京本さんの並外れた演技力と私の並外れたオタク力の結集です。

 

そんな死生学のテーマのひとつとして、デーケンさんは「中年期の8つの危機」を掲げます。

ひとつめが、「時間意識の危機」。若いころは寿命に余裕があり意識にのぼることのない「時間」について、中年期に差し掛かると残り半分の人生に一気に不安を感じるという危機です。

 

その対処法としてデーケンさんが語るのは、主観的な時間の捉え方を変えること。

残された時間の少なさに悲観的になるのではなく、時間の貴重さを意識して、カイロスという唯一の機会(決定的な瞬間)をしっかりとつかむことです。

 

ドラマの中では、ずっとこれを実践してきているのが一花ちゃん。

余命宣告されたそばから「2年あれば大学生になれるね」と言える彼女は、カイロスをつかむ天才です。

 

そんな一花ちゃんと「決定的な出会い」を果たした萬木先生の最終講義。

「溶けていく雪を嘆くのも、残された雪を固めるのも。同じ一分一秒ならば、喜べることに時間を使いたい。」

 

…無理。未だに泣ける。文字に起こしながらまだ泣ける。

家族を失い、自身も余命宣告を受け、一時は「さよならだけが人生だ」と諦めた萬木先生は、一花ちゃんとの時間を通して、「よく生きよく笑いよき死と出会」ってきたのです。

 

しかも、ここの比喩が雪なのが本当に秀逸。

なぜなら、萬木先生が余命宣告される前の記憶だから。

余命を知って初めて一花ちゃんとの思い出に意味を見出した、わけじゃない。

純粋に一人の先生と生徒として向き合った時間も、萬木先生のかけがえのない糧になっている。

ゆるゆるは本当に、素敵な「先生」だと思うのです。

 

 

どうせなら、喜んでよ。

さて!私の一番好きな台詞の時間だよ~!!!

 

初回からサブリミナル的に取り込まれ、最終回の海辺のシーンではきっと全視聴者が声を合わせたであろう「どうせなら」。

この言葉は、デーケンさんの著書の中の「思い煩う危機」に結びつきます。

 

この危機は、自分でコントロールできることと自分の力ではどうにもならないことを混同してしまう危機。

どうにもならないことを思い悩むのにエネルギーを浪費してしまい、余生を前向きに捉えられなくなってしまうことを指します。

一花ちゃんのお気に入り「晴れてもアーメン、雨でもハレルヤ」も、この危機を打開するためのおまじないです。

 

人生には往々にして、どうにもならないことがつきものです。

2人にとっても、病気・余命は誰のせいでもない変えられない事実。

だけど、その事実を前に、無力感に打ちひしがれてしまうのか、日々をより大切に生きていくのかは、自分で「選択」できるのです。

 

どうせ、教室の場所を教えるんだから。

どうせ、定期入れを拾うんだから。

そして。

どうせ、近々死ぬんだから。

どうせなら、喜んでよ。どうせなら、笑ってください。

 

たった二文字違うだけなのに、この言葉だけで少し温かい未来を選べる

素敵な、大切な言葉だなぁと思います。

 

ちなみに、デーケンさんは、「死生学」とともに、「ユーモア哲学」もライフワークにされています。

もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが…

「ユーモアとは、『にもかかわらず』笑うことである」

劇中の講義に出てくるこの台詞も、ドイツ哲学から来ています。

 

デーケンさんは、ユーモアは相手に対する思いやりを原点とするものであり、成熟した人間にとってはその対象はいつも自分であるとしています。

 

「自己否定」ではなく「自己風刺」が人と人を結ぶ。

その違いが、「どうせ」と「どうせなら」だと思うのです。

 

「どうせ、できない。」は自己否定。

だけど、「できないものはできない。どうせなら、笑おう。」は自己風刺。

 

きっとドラマがなかったら、私はこの差に気づけずにいたと思う。

その意味でも、素敵で大切な言葉です。

 

 

「遺す」希望

デーケンさんは、初めて書籍を執筆した時のことを振り返り、読者にこう訴えます。

「子どもたちに、イマジネーションを使って創造する経験を与えてください。そしてそれが生きがいになるように、励ましてください。」

 

はじめにこのパートを一読した限りでは、これがどう「死生学」に結びつくのかピンと来ませんでした。

ただ、読了した今は、その価値が分かります。

イマジネーションを使って創造したものは、後世に、そして関わった人に、「遺る」ものだからです。

 

余命を知った萬木先生が、一花ちゃんとの時間の中で最後に望むのは、もう一度講義をすることです。

講義は、紛れもなく萬木先生の創造物であり、聴く人の心に「遺る」もの。

その創造の過程で、「また失う恐怖」に打ちのめされる萬木先生を支えたのは、一花ちゃんのまっすぐな励まし。

デーケンさんの語る経験とその価値に結びつくものがあります。

 

そして迎えた最終講義で、萬木先生はこう語ります。

「百年もすればみんな死ぬし、千年もすれば創ったものも忘れられてしまう。それでも何かをなす意義なんて、本当にあるんだろうかと。」

 

確かに、萬木先生の最終講義を聴いたのはたった2人。

一花ちゃんもほどなくしてこの世を去る。

そう思うと、「忘れられる」講義なのかもしれない。

 

だけど、萬木先生本人にとって。

そして、同じ時間を生きた一花ちゃんにとって。

それは喉から手が出るほど求めていた時間で、

そのために生きられた時間で。

「最期の時」まで「遺る」、希望の時間なのです。

 

 

愛と死と永遠

デーケンさんは、「死生学」を研究するに至った転機のひとつとして、ガブリエル・マルセルの哲学との出会いを挙げています。

 

その大きなテーマの一つに、「愛と死と永遠」の哲学があります。

若くして母親を亡くしたマルセルは、愛は、真に相手の永遠性を希望するかどうかで測られるとしています。

 

…この「相手の永遠性」というワード、めちゃめちゃ難しくないですか?

この場合の「相手」は、生まれながらのあるがままの「相手」なのか。

それとも、自分と生きていけるように互いに順応しあった結果残った「相手」なのか。

それによって、「永遠性」の定義も大きく変わると思うのです。

 

そんな私に答えをくれたのは、ドラマ最終回の海辺のシーン。

キスした瞬間に右目から一筋だけ流れる涙の美しさだけで4時間は語れる名シーンですが、一旦それはおいておきます。

 

世界一美しいキスシーンの前に、萬木先生が発するこの台詞。

「もし俺がくたばっても、君は悲しまないでいてくれる?

いい日々だったなって笑ってくれる?

君と出会えて俺は本当に幸せだったから。

俺のせいで、君が泣くのはもう嫌だ。」

 

…無理だって。泣くって。(2回目)

 

この台詞は、萬木先生が一花ちゃんの「永遠性」を望んだ言葉だと思います。

萬木先生の記憶の中の一花ちゃんは、いつだって笑顔と喜びと驚きに溢れていて、

そんな「一花ちゃんらしさ」を自分の死で奪いたくない。

一花ちゃんの生まれながらのあるがままの姿の中でも、自分と生きる時間の中でひと際輝いて見えたその部分を、大事に大事に守ってほしい。

そんな思いが溢れた台詞に聞こえます。

 

そして、このシーンの素敵ポイントがもう一つ。

それは、2人の「名前」です。

 

「あなたの名を何回も何回も呼んでもいいかな」

「私の名を何回も何回も呼んでくれたね」

 

萬木先生はこの時初めて「一花」と呼んで、一花ちゃんはそれでも「先生」と呼ぶ。

名前にも入っている笑いを、大切にしてほしい。

命を懸けた最後の講義を、文字通り一生忘れない。

そんな2人の深い深い思いが通う、素敵すぎる一時です。

 

 

さよならだけが人生ならば。

期末レポートくらい書いてきたこのブログも、間もなく終わります。

結びは、みんな大好きエンドロールについて。

 

デーケンさんの著書の中で、死後の生命に関する項があります。

デーケンさんは、死後については事実がとれないことを認めたうえで、

「死ですべてが終わってしまうということも証明不可能」としています。

先達も、その理由の差こそあれ、死後の生命が存在する可能性に言及してきました。

 

この項を読んでいて思い出したのが、萬木先生のこの台詞。

「奇跡は必ず起きる。もしも時間が、無限ならね。」

 

正しいかどうかは置いておいて、死後の生命は存在する。

そう信じて生きる。

そうすれば、長い長い階段の先で、きっとまた出会える。

 

なぜなら。

時間が無限なら、奇跡は必ず起きるし。

さよならだけが人生ならば、人生なんかいらないから。

 

哲学というノンフィクションの学問に、ドラマというフィクションを通して、

希望的観測で応戦するエンドロール。

これから経験するかもしれない悲嘆の中で、多くの人のエネルギーになるシーンだったと思います。

 

 

とてもとても長くなりましたが。

「驚きは哲学の始まり」。

驚ける感性を大切に、さよならだけじゃない人生を、明日からも。

 

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アルフォンス・デーケン 『よく生き よく笑い よき死と出会う』 | 新潮社