そのまなざしに、歪みを超える「心意気」をみた日。~金子差入店~
人間は誰しも、何かしらの歪みを、抱えていると思う。
完全体の、教科書通りの人間などいなくて、
不安も、恐怖も、怒りも、トラウマも、どうにか抑えて生きている。
そう、「抑えて」いるだけなのだ。
金子真司は、実にそれが分かりやすい。
親子関係の中で生まれた歪み。
抑えて、なかったことにして、自分は真っ当にと生きてきたはずで。
だけど、何かの弾みが着火剤になって、
一番抑えてきた場所であろう職場で、爆発した。
そして彼は、前科者になった。
愛する息子が産まれて、父としても真っ当にあろうとする中でも、
その歪みは完全には消えていない。
母と対峙した時、犯人と対峙した時、息子に危険が及ぶ時、
いつ何時も爆発の危険性を抱えながら生きている。
それがあまりにも人間らしくて。心底共感できてしまって。
彼が誰かの「心意気」に触れるたびに、こちらまで温かくなって、
気づけば涙がこぼれ出てしまう。
そんな125分だった。
我が家は、「普通」ではなかったと思う。
物心ついた頃から、両親は不仲だった。
小学校低学年の頃には、父の存在が原因で、母が鬱になった。
父と母、父と妹が手を上げあう喧嘩もしょっちゅう。
泣き叫び、拳を振り上げ、時には刃物すら手にする両者の間で、
「もう誰かに見つかってくれたらいいのに」
「家族が終わればいいのに」と思った夜も、数えきれないほどある。
未だに家族によいイメージがなく、
20代半ばになっても、同棲も結婚も怖くて踏み切れない。
自分が子供を育てるなんて、とてもじゃないけど無理だと思っている。
だけど、最近思うことがある。
血縁って、そんなに重要なのだろうか。
もちろん、家庭は人間が最初に接する社会で、
人格形成の中核にあると思う。
かくいう私も、上記のような環境で育ったからこその、
価値観や性格を数多持っている。
だけど、人間が一生の中で接する社会は、家庭だけじゃない。
学校、習い事、会社、趣味のコミュニティ、今ではオンラインだって繋がれる。
誰に、どんな人に、出会うか。
誰と、どんな人と、繋がるか。
いつ、どこで、どんな風に出会い、どんな深さで繋がるか。
それによって、人間は、大きく変わる。唯一無二の人になる。
高史は、家庭の外に出られなかった。
出ても、その目のことで孤立して、だんだんと内向きになったのかもしれない。
20歳まで育て上げることを義務と考えるだけの、
自分にはまなざしが向いていない家庭の中で、孤独を深めていった。
彼の所業は許されるものではないけれど、
「環境が違えば共感できたかもしれない」と、私も思う。
方や佐知は、家庭の外に出た。
とんでもないきっかけだったとしても、その過程で手を汚しても、
這い出て、駆け抜けて、その先で、真司に出会う。
そのまなざしには、確かな「心意気」があった。
恩人に会って、お礼を言いたい。謝りたい。
「あなたの人生もまだ終わっていない」と、「私は待っている」と、
ちゃんと伝えたい。
出会うだけでは、繋がらない。
繋がるには、確かな「心意気」とそこへの共感が必要だ。
真司は、そのまなざしに突き動かされる。
彼女の人生を清算する数分を作る。
どちらも決して真っ白ではない。働きアリではない。
だけど、真っ黒でもない。絶対悪ではない。
たくさんの繋がりを経た結果でしかないのだと思う。
だからこそ、背負いすぎなくていい。
なくならない歪みに、囚われすぎなくてもいい。
まなざしを、そこにある「心意気」を、正面から受け止めることだけ忘れなければ。
どこかに必ず、応えてくれる人がいて、ちゃんと受け継がれて。
その先できっと、「自分のやりたいようにやる」未来があるはずだから。
クソみたいな世の中でも、知っている感動をつないで、
折り合いつかない憤りすら大切に、とにかく誠実に生きる勇気を、
この映画はくれている。
強く優しくなりたいとき、また、会いに来ます。