りつの備忘録

推しをながーく愛でる用。

これはきっと、「恋」のすべて。~プリシラ~

近しいバックグラウンドを持つ人に惹かれる気持ち。

知らない世界を教えてくれる人に惹かれる気持ち。

 

弱さを受け入れてくれた人に依存していく気持ち。

そんな相手に、母性でもって「支えになりたい」と思う気持ち。

 

周囲の目線を気にせず、一途に思い続ける気持ち。

相手の周囲の異性が気になり、嫉妬や孤独と戦う気持ち。

 

強い自我と少しの暴力性でもって相手を染めたいと思う気持ち。

それが社会的に正しいかどうかは別として、相手に染まりたいと思う気持ち。

 

他の異性に惹かれてしまう気持ち。

そんな相手を見て、取り戻した冷静さと客観性。

 

精神的な不安定さから相手を振り回すこと。

その精神性を攻略し、手のひらで転がすこと。

 

自分のものにしたいと囲い込むこと。

その中で、精神的な自律性を保つこと。

 

気がつけば、身体的な欲求に凌駕されてしまうこと。

一歩引いたところで、自分の歩むべき道を正しく捉えること。だからこそ、「永遠に愛せる」ということ。

 

プリシラ「すでに別々の道にいる」

エルヴィス「男でもできたのか」

プリシラ「私は自分の人生を歩む」

 

「恋」を上書きするのは、他の「恋」とは限らない。

 

自分の大切にしたいことを大切に。

自分も相手も「愛しきれる」。そんな恋をしたいものです。

 

映画『プリシラ』公式サイト

「不器用」こそ私の軸だ~Netflix Series:LIGHT HOUSE~

とんでもなくお久しぶりになってしまいました。

私としたことが、再就職した途端、また"感欲"を蔑ろにした日々を送り、案の定また床に伏せっております。

"感じられない日々"はやっぱり恐ろしい。

ということで、本日からまた再開です。

 

本日は、Netflix Series:LIGHT HOUSEについて。

中学生の頃から重度の星野源クラスタ兼リトルトゥースである私には、これ以上ない最高コンテンツでした。

いつものごとく長々と語らせていただきます。

 

「評価」のない線引き

第1話で出てくるピース綾部さんのエピソード。早速目からうろこでした。

年に1回、スーパーボウルのロケで会う若林さんに伝えているというこの言葉。

 

「お前そっちだもんな」

 

言葉だけ見ると、決めつけに感じられるこの言葉に、若林さんは「安心する」と話します。

それは、逆転ではなく対等だから、そこに「評価」がないからだと思います。

 

第2話では、SNSが普及した現代の若者の本音・夢について語られます。

どこに動いても人の目がある環境の中で、否応なしにソーシャルの中に置かれること。

ソーシャルは古くから、「異端」が死ぬようにできていて、周りの「評価」を無視しては生きられないこと。

現代では、「異端」の定義に幅がなくなり、表現として最適解か誤答かの2択になってしまっていること。

だからこそ、本音・夢を大っぴらに語れないこと。

 

「評価」という答え合わせがある中では、本音も夢も話せないどころか見つからない。

最適解としては「分かる」ことだけど、心から納得はしていない。

だから、「分かることが分からない」のだと思うのです。

 

「無」にだけある価値

第1話で源さんが語る悩み。

 

「必要とされていないと感じても楽しく生きられる人になりたい」

 

………ありえん分かる!!!

 

仕事ができない、会社で評価されていない、友達が少ない、恋人がいない私には価値はない。

人一倍働かないと、評価されないと、友達と会わないと、恋をしないと、レールから外れて死んでしまう。

社会に出てからなぜかずっと急きたてられていたのは、こんな想いのせいだと気づきました。

 

だけど、それって誰が決めたんだろう。

誰かに言われたことはあっただろうか。

自分が勝手に作り上げて、勝手に課した足かせではなかろうか。

 

「本当はもっと世の中のいろんなことがどうでもいいはずで。

楽しく好きに生きていいはずなんですよ。」

 

社会がなんとなく決めた価値基準も通念も、それに縛られた評価も思考も、「どうでもいい」はず。

なければないだけ、考えなければ考えないだけ、楽しく生きていけるはず。

 

無意識に取り入れてはいないだろうか。

自分の中で「絶対」にしてしまっていないだろうか。

「評価」という名の答え合わせに、飼い慣らされていないだろうか。

 

度々足を止めて振り返り、切り捨てていくことが必要かもしれません。

 

「自分軸」ってなんだろう

とはいえ、何かしらのシンボルはしっかり持っていたいもの。

世間ではよく「自分軸」なんて称されますが、本当に見つからないんだこれが…。

 

ここ数年ずーっとこれに悩まされ、見つけられない自分を恥じ、社会に急きたてられるうちに、気づいたら息ができないところまで来ていました。

 

だけど、周りには全力で「若さ」を楽しんでいる友人や同期がいて、親や上司からは「20代なんて可能性しかないじゃない」と羨まれ、周囲が抱くイメージと自分の苦しみとの間に大きな差を感じ続けています。

 

そんな中、第1話エンディング『灯台』のこの歌詞に触れました。

 

「君は若くていいねなんて 知らねぇよカスが

もし僕が明日死んだら これが一生なんだ」

 

はい、大号泣。

 

第5話で若林さんが話す20代のお話、共感しかありませんでした。

一生懸命漕いでいるのに、どこに着くかが分からない。

そもそもちゃんと着けるのかどうかも分からない。

可能性が多面的過ぎるが故に、ゴールも現在地も見えないことが苦しいのです。

 

じゃあ、そのゴールはいつどうやって決まるんだろう。

自分で決められるんだろうか、自然に決まるんだろうか、そのために今しなくてはいけないことはなんだろうか。

 

半ばパニックになっていたところに、第6話の源さんのこの言葉。

 

「手近なところに目標がない」

 

………ありえん分かる!!!(2回目)

 

社会人になってからずっと抱えていたもやもやはきっとこれでした。

学年もなければ、各年度で達成しなければいけない明確な目標もないし、ロールモデルにしたい方もいない。(失礼)

だから、ゴールも現在地もずっと見えなかったんだ。

すっきりした、ありがとう源さん…!!!

 

そんな源さんは、「なったことのない自分になること」を目標にされています。

 

「なったことのない自分」がどんな自分かは、今はきっと分からない。

具体的には何も解決していない。

とりあえず今は、漕ぎ続けるしかない。

 

だけど。

漕ぎ続けていれば。沈みさえしなければ。

そこに風が吹く。潮が流れる。気づいたら辿り着いている。

 

全6話を通じてのお二人の姿がまさしくこの通りだったと思います。

業種は違えど、ご縁で引き合わされたお二人。

どちらかが答えやヒントを持っていて、持ちつ持たれつ進んできた8か月。

どちらが先導するかは意思では決まらず、そこに委ねて受け入れたことで見つかったものがあったはずです。

 

 

そりゃあ、風と潮の流れを正確に読んで、無駄に漕がずに過ごせたら、楽だろうなと思いますよ…。(小声)

正直羨ましい。死ぬほど。ありえないくらい。

 

だけど、「らしい」とは思えないのが事実。

無駄に漕いで、苦しんで、だからこそ出会える・見つかるものがいつも以上に愛おしい。

思い返せば、ずっとその繰り返しだった気がしています。

そして、そんな人生も「悪くはないな」と思うのです。

 

だから、「不器用」こそが私の軸。

悔しいけど、お二人と一緒ならそれもいいかな。

 

さあ明日からも。仕方なく踊ろう。

「円」の人生~First Love 初恋~

書く前から語りきれる気がしない、含蓄の多すぎるドラマ。

 

Netflixオリジナルシリーズ「First Love 初恋」についてです。

 

 

1人も無駄にしない「運命」の物語

このドラマの一番好きなところは、登場人物が1人も無駄にならないところです。

1人でも欠けたら、主人公2人の人格も、考えも、選択も、きっと違っていたはず。

そもそも、出会ってすらいないかも。

そう思えるくらい、登場人物1人ひとりに厚みがあるところが、本当に素敵です。

まずは、その登場人物を簡単にご紹介します。

 

野口也英

常に最悪の事態に備える。

頭がいいから、先回りして、落下点を予測して守りに入る。

唯一の弱点は、自信がないところ。

ピクニックに行くにも、スピーチコンテストに出るにも、父と会うにも、CAの夢を追うにも、保守的すぎる主人公。

野口幾波子

也英の母。

娘を想うがゆえに、「自分と同じ苦労をさせたくない」「自分が叶えられなかったことを代わりに成し遂げてほしい」と願う。

野口昭比古

也英の父。

結婚直前に他の女性を孕ませ出て行った。

也英と幾波子に「選ばれない、失う、比べる」原体験を与えた人。

向坂行人

也英の元主治医であり元夫。

カレンダーは早くめくるし、プロポーズは指輪の郵送でしてくるせっかちすぎる男。

也英にとっては、最後まで打ち明けることのできない、ラベリングが強すぎた夫。

向坂綴

也英と行人の息子。

2人の離婚後は紆余曲折を経て行人のもとで暮らしているが、物語の中で「正しい護られ方」に触れていく。

並木晴道

純粋、単純、正直の三拍子そろった男。

幼い頃のある経験から、「護る」ことに強いこだわりと熱量のある人。

好意と庇護欲を混同しているところが若干厄介。

並木優雨

晴道の妹。

個性派ぞろいの並木家の中でも、晴道に「護りたい」原体験を与えた人。

まっすぐで温かい「赤」の人。

有川恒美

晴道の元カウンセラーで婚約者。

「恒美のツネは恒星のコウ」でおなじみの芯と癖の強い人。

恒星は、見上げればいつもそこにあり、自分の力で輝く。その名の通りの女性。

占部旺太郎

也英が勤めるタクシー会社の同僚。

新人時代の教育担当であり、也英に密かに思いを寄せる。

終盤は、也英の運命を応援してくれる最高の応援団長。

天才ダンサー。

綴がSNSを通じて出会い思いを寄せる相手。

晴道が勤めるビルで綴と出会い、自らも力強く進みつつ、綴のこれからを後押しする。

 

…はぁー!!!下手くそ!!!(大声)

私の語彙力では薄すぎる。余りにも。

どうしてこういうプロフィールになるのか、その素性がどんな場面でどんな順序で見えるのか。

そこが本当に本当に素敵なんです。

こんなんじゃきっと愛着わかないので、本編見て、本当に。(丸投げ)

 

 

It's Automatic.

このドラマには、様々な人の「どうしようもない衝動」の数々が描かれます。

絶妙なのは、それが恋愛や若さと結びつかないところ。

 

例えば、なかなか帰ってこない綴を也英が探しに向かうシーン。

勝手に駆け出すその足は「母性」からです。

也英のメッセージをきっかけに、晴道が思い出す離陸の感覚。

それは晴道が必死で追いかけ身に着けた「夢のあとさき」。

親の期待に応えようと受験勉強を始めた綴。

それでも頭に駆け巡る音楽は、止められない「才能」。

 

幅広い「衝動」が描かれることで、劇中歌の「Automatic」に新しい視点が増えます。

音楽と映像の最高の共栄です。

 

そして、ストーリーラインにおいても、この「衝動」は重要なテーマ。

 

高校時代の也英は、昭比古に植え付けられた原体験と、幾波子からの保護のもとで、

自分の衝動を抑えて生きています。

そんな壁を壊してくるのが、「純粋・単純・正直男」の晴道。

根拠のない「絶対」で、その衝動を後押ししていきます。

 

晴道と別れた後、行人と結ばれ綴を授かり、そして2人とも失う也英。

「選ばれない、失う、比べる」ことを再び味わってしまった也英は、

挑戦と思考を止めることを選びます。

考えない「ようにする」、今の人生で十分だ「って思う」のです。

 

次そこにエネルギーを与えてくれるのは、晴道ではありません。

旺太郎さん、詩ちゃん、そして綴です。

 

「逃げるな、野口也英!前を向け!息を吸って前進しろ!

傷ついたって、みっともなくたって、人生は飛び込まなくっちゃ!」

 

「どう考えても、100回諦めても、詩ちゃんが好き。」

 

結びに書きますが、まわりまわって、めぐりめぐった人生の中で出会った人々に、

也英は救われていくのです。

 

どんな場面にも、どんな年齢でも訪れるその「衝動」。

分かったふりをしないで、諦められたふりをしないで。

どこでもいつでもまっすぐに向き合って、生きていきたいものです。

 

ところで、私の座右の銘は、

「衝動抑えて、疲れた顔すんな。大人になったって理想は、無邪気のかたまり。」

です。

尊敬してやまない関ジャニ∞の楽曲の一節ですが、きっとこの物語にも通ずるところがあると思います。

見ている間、也英と晴道に聴かせたいと何度思ったことか…!!!

「衝動」抑えがちな人々!関ジャニ∞はいいぞ!!!(薄)

 

「護る」とは

この物語には、たくさんの親子とカップルが登場します。

特に、幼い頃、目の前でおぼれる優雨を助けられなかった悔いのもとで生きる晴道がいることで、「護る」ことがひとつの大きなテーマになっています。

中でも私は、2種類の「護る」を見ました。

 

ひとつは、「狭めて護る」ことです。

 

也英は、幾波子のもとで、ある種「過保護」に育ちます。

学と男運がなく、也英を女手一つで育てることに苦心してきた自分のようにはなってほしくないと語る幾波子。

教育の機会を与える一方で、晴道には最も厳しく接し、父親との接触も制限し、権威と収入を認めた行人との結婚は後押ししました。

 

綴に対する行人も同様です。

音楽の才能を持ち夢を追おうとする綴に対して、将来が保障されている医師という仕事と、そのための勉強を強要します。

 

この2人に通ずるのは、子どもの道を安全な一択に「狭めて護って」いることです。

ただその一本の道で安全なのは、子どもだけでなく自分も一緒。

自身の自己実現のための手段として、子どもの一本道にあやかっている気がします。

 

反対に、もうひとつは、「広げて護る」ことです。

 

也英に対する昭比古、晴道、旺太郎。晴道に対する恒美。そして、綴に対する也英。

この物語では、こちらの「護る」が多く出てくるように感じます。

 

大切な誰かの抱える「衝動」を許す・認める

「衝動」は抱える本人にとっても不安なものである中で、「絶対」をくれる

最初は根拠のないその「絶対」を、努力と行動で裏付けてくれる。

自分が持てる一番きれいなものを、物事の一番いいところを、与えてくれる。

捨てたもんじゃないかもなって期待をくれる

そんな「護る」です。

 

最終話で也英が綴に放つこの台詞。

「親の期待に応えようなんて思わなくていいから。

綴には、自分で選び取ったものを信じる権利がある。

それが間違いでも失敗でも、人生にとっては何かしらの意味があるから。」

 

この台詞は、旺太郎と晴道の合作だと思っています。

晴道への思いにためらう也英に、傷ついてもみっともなくても飛び込めと伝えた旺太郎。

自分の名前を載せた火星探査機のミッション失敗を寂しげに語った也英に、必ず意味はあると伝えた晴道。

2人の思いに触れた今の也英だからこそ発することができた一言なんだと思います。

 

也英に対してはそう言い切った2人も、それぞれの「衝動」と向き合っていて。

也英に言い切った言葉を根拠づける努力と行動を重ねていきます。

きっと意識しているものではないけれど、大切な人に放った言葉はその人自身のエネルギーになる。

 

とてもリアリティのある「護る」だと思います。

 

「円」の人生

誰でも最初から「衝動」と向き合えるわけじゃない。

「正しく」護り護られるわけでもない。

だけど最後はきっと、それが叶う。

そんなメッセージが込められたモチーフの数々を、結びに語らせてください。

 

最たるものは、無線。

晴道が街中で見かけた也英を探すために、無線オタクの後輩から借りるものです。

 

借りる時、晴道は無線を「ロマンティックの交換」と表します。

そんな晴道に対して後輩は、無線だけで人を探し出すことがいかに難しいかを語り、

「奇跡を待ってください」と伝えます。

 

結局晴道は、無線を使って也英が勤める会社まではたどり着くものの、

その日也英は非番。

会うことはかなわず、後日綴の紹介で再会を果たすのです。

 

思えばこれまでも、也英と晴道にはいくつも接点がありました。

也英が晴道の最寄り駅に書いたメッセージ。晴道が送り続けた手紙。

イラクから帰国した晴道とCAになりきっていた也英。

だけど、いずれも再会にはつながらなかった。

「直線」的な交換ではなし得なかったのです。

 

運命は、晴道が"Roundabout"で也英を見かけた日から、変わり始めます。

2人の思い出の中にある、惑星も、CDも、公園もすべて「円」

再会するまでの間も、晴道は自衛隊員として間接的に也英を護り、

也英の作った機内食は晴道に届いていました。

 

このご時世、「まっすぐそのまま」なんていうのは難しい。

だけど、「まわりまわって、めぐりめぐって」なら。

なし得ることがあるかもしれない。

 

捨てたもんじゃないかもなって期待をくれる。

この物語こそ、今の私たちを「広げて護って」くれるものかもしれません。

 

多分今日もどこかで生きている2人へ。

「あなたの名前を火星に」キャンペーンも。

宇多田ヒカルの鮮烈なデビューも。

イラク復興支援の時代も。

リーマンショックの最中も。

東日本大震災の混乱も。

そして、このコロナ禍も。

私たちと一緒に生きてきた也英と晴道は、きっと今日もどこかで生きています。

 

今夜の2人のフライトはどこだろう。

「いつか来るその日にまた会いたい」2人へ。

恥じることのない温かい毎日を。

「さよならだけが人生ならば」~束の間の一花~

…やっと…これが…書ける…!!!

 

なぜなら、『よく生きよく笑いよき死と出会う』を読了したから!!!

 

昨クールのドラマ・束の間の一花を、哲学とお芝居とSixTONESが大好きな人間が語らせていただきます。

 

 

その束の間は、いくつもの奇跡でできている。

…初っ端から最終回の最後の台詞を持ってきちゃうあたり、ブログ慣れてなさが出てる。

 

でも本当にこれに尽きるので、ちょっとここから語らせてください。

 

萬木先生の敬愛するアルフォンス・デーケンさんの著書『よく生きよく笑いよき死と出会う』は、デーケンさんご自身の半生を振り返るところからスタートします。

「死生学」をライフワークとするに至った家庭環境、経験、書物。その過程が丁寧に語られるおかげで、一見近寄りがたい「死」というテーマが一気に身近になる感覚です。

 

そして、「死生学」の中核に触れるのは、中盤の第三章。

のっけからいきなり、

「生と死は、どちらかだけで存在するものではなく、決して切り離せない表裏一体のもの」

「死について学んでいれば、同時に生きることの尊さも発見できる」

 

…ゆるゆるじゃん!!!(大声)

言い回しは違うのに、ちゃんと京本さんの声で再生されてしまうのは、京本さんの並外れた演技力と私の並外れたオタク力の結集です。

 

そんな死生学のテーマのひとつとして、デーケンさんは「中年期の8つの危機」を掲げます。

ひとつめが、「時間意識の危機」。若いころは寿命に余裕があり意識にのぼることのない「時間」について、中年期に差し掛かると残り半分の人生に一気に不安を感じるという危機です。

 

その対処法としてデーケンさんが語るのは、主観的な時間の捉え方を変えること。

残された時間の少なさに悲観的になるのではなく、時間の貴重さを意識して、カイロスという唯一の機会(決定的な瞬間)をしっかりとつかむことです。

 

ドラマの中では、ずっとこれを実践してきているのが一花ちゃん。

余命宣告されたそばから「2年あれば大学生になれるね」と言える彼女は、カイロスをつかむ天才です。

 

そんな一花ちゃんと「決定的な出会い」を果たした萬木先生の最終講義。

「溶けていく雪を嘆くのも、残された雪を固めるのも。同じ一分一秒ならば、喜べることに時間を使いたい。」

 

…無理。未だに泣ける。文字に起こしながらまだ泣ける。

家族を失い、自身も余命宣告を受け、一時は「さよならだけが人生だ」と諦めた萬木先生は、一花ちゃんとの時間を通して、「よく生きよく笑いよき死と出会」ってきたのです。

 

しかも、ここの比喩が雪なのが本当に秀逸。

なぜなら、萬木先生が余命宣告される前の記憶だから。

余命を知って初めて一花ちゃんとの思い出に意味を見出した、わけじゃない。

純粋に一人の先生と生徒として向き合った時間も、萬木先生のかけがえのない糧になっている。

ゆるゆるは本当に、素敵な「先生」だと思うのです。

 

 

どうせなら、喜んでよ。

さて!私の一番好きな台詞の時間だよ~!!!

 

初回からサブリミナル的に取り込まれ、最終回の海辺のシーンではきっと全視聴者が声を合わせたであろう「どうせなら」。

この言葉は、デーケンさんの著書の中の「思い煩う危機」に結びつきます。

 

この危機は、自分でコントロールできることと自分の力ではどうにもならないことを混同してしまう危機。

どうにもならないことを思い悩むのにエネルギーを浪費してしまい、余生を前向きに捉えられなくなってしまうことを指します。

一花ちゃんのお気に入り「晴れてもアーメン、雨でもハレルヤ」も、この危機を打開するためのおまじないです。

 

人生には往々にして、どうにもならないことがつきものです。

2人にとっても、病気・余命は誰のせいでもない変えられない事実。

だけど、その事実を前に、無力感に打ちひしがれてしまうのか、日々をより大切に生きていくのかは、自分で「選択」できるのです。

 

どうせ、教室の場所を教えるんだから。

どうせ、定期入れを拾うんだから。

そして。

どうせ、近々死ぬんだから。

どうせなら、喜んでよ。どうせなら、笑ってください。

 

たった二文字違うだけなのに、この言葉だけで少し温かい未来を選べる

素敵な、大切な言葉だなぁと思います。

 

ちなみに、デーケンさんは、「死生学」とともに、「ユーモア哲学」もライフワークにされています。

もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが…

「ユーモアとは、『にもかかわらず』笑うことである」

劇中の講義に出てくるこの台詞も、ドイツ哲学から来ています。

 

デーケンさんは、ユーモアは相手に対する思いやりを原点とするものであり、成熟した人間にとってはその対象はいつも自分であるとしています。

 

「自己否定」ではなく「自己風刺」が人と人を結ぶ。

その違いが、「どうせ」と「どうせなら」だと思うのです。

 

「どうせ、できない。」は自己否定。

だけど、「できないものはできない。どうせなら、笑おう。」は自己風刺。

 

きっとドラマがなかったら、私はこの差に気づけずにいたと思う。

その意味でも、素敵で大切な言葉です。

 

 

「遺す」希望

デーケンさんは、初めて書籍を執筆した時のことを振り返り、読者にこう訴えます。

「子どもたちに、イマジネーションを使って創造する経験を与えてください。そしてそれが生きがいになるように、励ましてください。」

 

はじめにこのパートを一読した限りでは、これがどう「死生学」に結びつくのかピンと来ませんでした。

ただ、読了した今は、その価値が分かります。

イマジネーションを使って創造したものは、後世に、そして関わった人に、「遺る」ものだからです。

 

余命を知った萬木先生が、一花ちゃんとの時間の中で最後に望むのは、もう一度講義をすることです。

講義は、紛れもなく萬木先生の創造物であり、聴く人の心に「遺る」もの。

その創造の過程で、「また失う恐怖」に打ちのめされる萬木先生を支えたのは、一花ちゃんのまっすぐな励まし。

デーケンさんの語る経験とその価値に結びつくものがあります。

 

そして迎えた最終講義で、萬木先生はこう語ります。

「百年もすればみんな死ぬし、千年もすれば創ったものも忘れられてしまう。それでも何かをなす意義なんて、本当にあるんだろうかと。」

 

確かに、萬木先生の最終講義を聴いたのはたった2人。

一花ちゃんもほどなくしてこの世を去る。

そう思うと、「忘れられる」講義なのかもしれない。

 

だけど、萬木先生本人にとって。

そして、同じ時間を生きた一花ちゃんにとって。

それは喉から手が出るほど求めていた時間で、

そのために生きられた時間で。

「最期の時」まで「遺る」、希望の時間なのです。

 

 

愛と死と永遠

デーケンさんは、「死生学」を研究するに至った転機のひとつとして、ガブリエル・マルセルの哲学との出会いを挙げています。

 

その大きなテーマの一つに、「愛と死と永遠」の哲学があります。

若くして母親を亡くしたマルセルは、愛は、真に相手の永遠性を希望するかどうかで測られるとしています。

 

…この「相手の永遠性」というワード、めちゃめちゃ難しくないですか?

この場合の「相手」は、生まれながらのあるがままの「相手」なのか。

それとも、自分と生きていけるように互いに順応しあった結果残った「相手」なのか。

それによって、「永遠性」の定義も大きく変わると思うのです。

 

そんな私に答えをくれたのは、ドラマ最終回の海辺のシーン。

キスした瞬間に右目から一筋だけ流れる涙の美しさだけで4時間は語れる名シーンですが、一旦それはおいておきます。

 

世界一美しいキスシーンの前に、萬木先生が発するこの台詞。

「もし俺がくたばっても、君は悲しまないでいてくれる?

いい日々だったなって笑ってくれる?

君と出会えて俺は本当に幸せだったから。

俺のせいで、君が泣くのはもう嫌だ。」

 

…無理だって。泣くって。(2回目)

 

この台詞は、萬木先生が一花ちゃんの「永遠性」を望んだ言葉だと思います。

萬木先生の記憶の中の一花ちゃんは、いつだって笑顔と喜びと驚きに溢れていて、

そんな「一花ちゃんらしさ」を自分の死で奪いたくない。

一花ちゃんの生まれながらのあるがままの姿の中でも、自分と生きる時間の中でひと際輝いて見えたその部分を、大事に大事に守ってほしい。

そんな思いが溢れた台詞に聞こえます。

 

そして、このシーンの素敵ポイントがもう一つ。

それは、2人の「名前」です。

 

「あなたの名を何回も何回も呼んでもいいかな」

「私の名を何回も何回も呼んでくれたね」

 

萬木先生はこの時初めて「一花」と呼んで、一花ちゃんはそれでも「先生」と呼ぶ。

名前にも入っている笑いを、大切にしてほしい。

命を懸けた最後の講義を、文字通り一生忘れない。

そんな2人の深い深い思いが通う、素敵すぎる一時です。

 

 

さよならだけが人生ならば。

期末レポートくらい書いてきたこのブログも、間もなく終わります。

結びは、みんな大好きエンドロールについて。

 

デーケンさんの著書の中で、死後の生命に関する項があります。

デーケンさんは、死後については事実がとれないことを認めたうえで、

「死ですべてが終わってしまうということも証明不可能」としています。

先達も、その理由の差こそあれ、死後の生命が存在する可能性に言及してきました。

 

この項を読んでいて思い出したのが、萬木先生のこの台詞。

「奇跡は必ず起きる。もしも時間が、無限ならね。」

 

正しいかどうかは置いておいて、死後の生命は存在する。

そう信じて生きる。

そうすれば、長い長い階段の先で、きっとまた出会える。

 

なぜなら。

時間が無限なら、奇跡は必ず起きるし。

さよならだけが人生ならば、人生なんかいらないから。

 

哲学というノンフィクションの学問に、ドラマというフィクションを通して、

希望的観測で応戦するエンドロール。

これから経験するかもしれない悲嘆の中で、多くの人のエネルギーになるシーンだったと思います。

 

 

とてもとても長くなりましたが。

「驚きは哲学の始まり」。

驚ける感性を大切に、さよならだけじゃない人生を、明日からも。

 

www.ntv.co.jp

アルフォンス・デーケン 『よく生き よく笑い よき死と出会う』 | 新潮社

「我らは尊い」~ラーゲリより愛を込めて~

この冬絶対に観たかった1本、『ラーゲリより愛を込めて』を観てきました。

とてもじゃないけれど抱えきれない物語。

反戦とか、お涙ちょうだいとか、そんな域にはおさまらない。

今この時代を生きる全ての人に「ちっちゃな希望」を灯す、そんな映画。

ここで語らせてください。

 

 

「生きる」とは

…でけー!初っ端からタイトルがでけーのよ。

こんな言葉でしか表現できない自分が憎いですが、本当にこれに尽きる。

 

「生きるのをやめないでください」

 

予告でも何度も使われていた山本さんのこの言葉。

本編では松田さんにあてたものではなくて、原さんにあてたもの。

自分がずっと尊敬してきた、その大きな背中を追ってきた人に、ひどく裏切られる。

その人にかけた言葉がこれです。

 

山本さんの「生きる」は、松田さんの言う「山本さんのような生き方」は、

ただ命を捨てずに生きることじゃない。

自分の美しいと思うものを信じ、正しいと思うように行動し、

そして好きだと思うものをまっすぐに愛する。

そんな命+αを、「生きる」と呼ぶのだろうと思います。

 

 

「人と」生きるということ

そんな生き方を実践するのに欠かせないのが、「人」の存在。

この物語には、人間らしい愛憎をもった人がたくさん登場します。

 

その中でも「人」らしすぎるのが、中島健人さん演じる新谷健雄さん。

通称・しんちゃん。

 

この映画を観る前、ひとつだけ懸念していたのは、

山本さんだけが報われない映画じゃないといいなぁ…でした。

山本さんが人々に希望を与えるだけ与えて、だけど結局は絶望の淵に立たされる。

…そんなの観れないじゃん!堪えられないじゃん!無理じゃん!!!(大声)

 

でも、実際は違いました。

もうお気づきですね、しんちゃんはヒーローです。

 

人々に希望を与え続けた山本さんにも、「生きる」ことをやめる時期があるんです。

敬愛する原さんに裏切られたことを知った後、

目の前で倒れる仲間に手を差し伸べることも、季節や自然を感じることもやめた。

 

そんな山本さんに、

クロを通して命の温かさを伝え、

シベリアの空を通して大事な人を思い出させ、

文字の勉強を通して「生きる」ことを取り戻させる。

それがしんちゃんでした。

 

主人公だからといって与え続けるだけじゃない。

ひとりの人間として、与え与えられ、支え支えられて、生きている。

それだけで山本さんという人が、この映画が、今の私たちにぐっと近づく気がします。

 

 

「知る」ということ

ラーゲリで暮らす人々は、多くのことを「知りすぎた」人々でした。

 

目の前で戦友が亡くなる瞬間と、そこから逃げること。

罪のない人を殺さなければならない瞬間と、それに耐えるために人間を捨てること。

人を率いてきた時間と、それが反転した時間と、逃れるためにつく嘘。

 

「知りすぎた」人は、目を背けることでしか、生きていくことができない。

映画の前半、「知る」ことは怖いこと、不必要なことに思えます。

 

だけどそこに、唯一の「何も知らない」人・しんちゃんが現れます。

生まれつき足が悪く、戦闘には参加していない。学校にも通っていない。

戦地での人の醜さを知らず、深く感じ考えるための知識もない人です。

 

そんなしんちゃんは山本さんに、文字を教えてほしいと頼みます。

文字を知り、俳句という文化を知り、自分の見たもの・感じたことを表現する。

今度はしんちゃんが、ラーゲリで暮らす他の人々にその文化をつなぐ。

人々が、言葉を通して、俳句を通して、つながっていく。

 

知れば知るほど見えなくなるものもあるけれど、

しんちゃんの「知る」はしんちゃんにとっても人々にとっても希望になる。

「知る」ことは怖いことじゃない。「生きる」ために不可欠なことだと思います。

 

 

さぁ、「尊く」あろうよ。

結びは、この物語を彩る主題歌・Soranjiについて。

私はこのタイトルに2つの意味をみました。

 

ひとつは「諳んじる」。

何も見ないで言えるようになること、です。

 

「頭の中で考えたことは、誰にも奪えない」

この山本さんの言葉がなかったら、しんちゃんが文字を習っていなかったら、

そもそも出会っていなかったら。

 

もちろん、諳んじなくて済むなら、それが一番よかった。

会いたい人と自分とどちらも生きていて、顔を見て伝えられるなら、それが一番いい。

だけどそれが叶わないとき。

会いたい人がもういなかったら。自分の身に万が一があったら。

 

…いや。それが叶わなくても。

会いたい人がもういなくても。自分の身に万が一があっても。

諳んじたその言葉は、人と人をつなぎ、ある人の悔いを昇華し、想いを届ける。

諳んじた誰かが重なることで、直接伝えるのとは違う意味と価値を持つ。

「諳んじる」ことは、きっとひとつの希望です。

 

どの「諳んじ」もぐっと来たけど、個人的に優勝は提案者のあの人。

要望通り笑顔で諳んじたあの人の、目を瞑った瞬間の涙。

苦しくて見たくないのに聞きたくないのに、引き込まれてしまう。

本当に素敵な俳優さんだと思いました。

 

もうひとつは、「空」が「暗示する」。

山本さんが「生きる」ことを思い出すのも。

山本さんの旅立ちを人々が感じるのも。

今を生きる山本さんの長男が大一番で想うのも。

全て「空」です。

 

今この瞬間も、同じ空の下にいろんな人生がある。

ここ数年、様々な事情で断絶してしまったことも多いけれど。

どこかで、どうにか、ちゃんと、つながってる。

だから、ちゃんと伝わる。

そんなメッセージだと思いました。

 

ラストのあの描写が、今この映画をやる意義なんだろうなぁと。

自分自身の失ったものを思い出して泣けて泣けてしかたなかったけれど、

忘れてしまうよりずっといいと思いました。

知ることができて、感情があって、生きていてよかったと思いました。

 

 

「汚れながら泳ぐ生の中で 

まあよくぞここまで大事にして 抱えてこれましたね」

 

「この世が終わるその日に 明日の予定を立てよう

そうやって生きて、生きてみよう。」

 

人と関わることも、知ることも、怖いことじゃない。

感情と正義と道義を、大事に抱えて。

そうやって生きてみよう。

そんな我らはきっと。

とてもとても尊いはずだから。

 

 

lageri-movie.jp

 

 

 

「いつまで続くことやら」な備忘録。

はじめまして。りつと申します。

衝動的に始めたはいいものの、何を書いていいのやら。

 

まずは簡単に自己紹介をば。

個人情報を明かすことなく一言で表すと、私は「エンタメ大好き人間」です。

 

始まりは12年前。関ジャニ∞のコンサート。

幼いながらに家庭環境や学校での人間関係に苦心していた私にとって、それは夢のような光景でした。

たった7人のために数多の人々が集まり、その音と言葉に熱狂する。

血がつながっていても似た環境で育っても分かち合えないものを、その日その時しか共にしていない人と分かち合える。

言ってしまえば「他人」なのに、一緒に笑って泣いて、歌って踊れる。

こんな世界もあるのかと、救われた気持ちでした。

 

そんな空間を作る人になりたくて、この12年を走ってきました。

国民的アイドルに比べれば、それはそれは小さな規模だったけれど。

演者も、観客も、携わるスタッフも。すべての人の心が通う空間は、どんなだろう。

そのために必要なものは、なんだろう。

その空間は、人々にとって、どれだけの糧になるだろう。

いついつも、そんなことばかりを考えていました。

 

そして2022年4月。それを仕事にすることになりました。

もっと大きな規模で実践できる立場になりました。

だけど、ここで気づきました。

自分よりはるかに大きな組織の中で、経験も知識もない人間が、

営利を前にできることは本当に少ないということに。

築き上げた信念を実行に移せず、いつになったら移せる立場になるのかも分からず、

それでも目の前のことに奔走した結果、頭と心と体がばらばらになってしまいました。

 

俗に言う「好きを仕事に」。

今の私は、

「好き」を貫くためのたくましさも、

「好き」と「仕事」との多少の齟齬に目を瞑る鈍感さも、

「仕事」に迎合するしなやかさも、持ち合わせていません。

いつかはそんな人生を送りたいと思いつつも、きっと今ではないのだと感じています。

 

なので、ここから先、しばらくの私のモットーは、

「好きは好きに、仕事は仕事に」になりました。

仕事は仕事の範疇で留める。

生きがいや人としての成長を仕事に求めすぎない。

好きなことを好きなように楽しむ。

…じゃあこの際ずっとやってみたかったこと、始めちゃおうよ!

ということで、このブログを書くに至っています。

 

名前の通り、ここは備忘録です。

以前、丸山隆平さんが雑誌でおっしゃっていた「感欲」という言葉。

エンタメに触れて心が動く瞬間は、生きていくうえで不可欠な人間の基本的欲求。

言うなれば「感欲」。

働いていた頃は、この欲がなくなったら、心が揺れなくなったら、

どんなに楽だろうと思っていました。

だけど、ひと休みしてエンタメに触れ直した今は、

この欲がなくなったら、なんて味気ない日々になってしまうんだろうと怖くなります。

そんな私の「感欲」を満たす場として、ここに記します。

 

【追伸】

初日こそ真面目に書きすぎましたが、次回以降は内なるオタクが暴走します。

出会っていただけた方はご了承ください。